ジョン・ドッド、李春生と台湾茶葉の時代 |
ジョン・ドッド(John Dodd)は、まさにヨーロッパが果敢に海外事業に乗り出していた時代のスコットランド籍の貿易商である。李春生はアモイで生まれ育ち起業したが、太平天国の乱により現地の商業が壊滅的な打撃を受けたため、ビジネスの場を他の地に移した。まず、ドッドが台湾に渡り、後に李春生も台湾へとやって来た。この二人の異国人は共に台湾へとやって来て、台湾茶葉を全世界へと広め、大稲埕の繁栄の歴史を築き、やがて「台湾茶の父」と呼ばれるようになった。
はるばる海を越えて ジョン・ドッド(John Dodd)は1859年に香港へ到着し、翌年には一回目の調査のため、また1864年にも再び台湾へとやって来た。彼は三〇年近くを台湾で過ごした。これは、彼が台湾の博物学に影響を受けたためと考えられる。ドッドは職業柄、樟脳・茶葉・石油・炭鉱などの台湾の物産に興味を持っていた。それ以外にも、多くの人類学的観察を行い、『北フォルモサ高山族部落風俗習慣略覧』や『フォルモサ高山族起源私見』などを発表した。 ドッドはもてなしの精神に富んでおり、気前がよかった。彼はかつて足を負傷し、それが原因で杖が手放せなかった。そこでついたあだ名が「三腳仔(三本脚)」であった。ジョージ・L・マッケイ(George Leslie Mackay)、通称「馬偕」が初めて宣教のため北台湾に到着した際、最初に足を休めた場所は淡水のドッドの邸宅であった。その時、ドッドは遭難していた大勢の船乗りを邸宅に泊めていたため、マッケイを浴室に泊めざるを得なかったという。清仏戦争の期間中、ドッドは一変して香港の諜報部員となり、ユーモアを交えた文体で、フランス軍が台湾を封鎖する状況を書き綴った。
一方、李春生はアモイで生まれ、15歳の時に船乗りの父親とともにキリスト教長老教会に入信し、洗礼を受けていた。彼は下流階級出身のため、まともな教育を受けたことがほとんどなかったが、卓越した外国語能力を身に着けていた。また、成長後は漢学に加え、商業をする上で必要な技術を自ら身に付けた。そのため、彼は外国企業に雇われ代理人という立場で、若くしてアモイのビジネス界で活躍した。李春生はビジネスの才があった他、国事や宗教にも力を入れた。台湾出兵(牡丹社事件)の折には、七編からなる『台事』を発表し、台湾国家運営戦略を論じた。また、北台湾各地に教会を建設するために、幾度も寄付をした。その後も時事や哲学の評論、キリスト教の教理解釈などを発表した。
台湾茶葉産業の発展 1865年、李春生はイギリス人で怡記洋行代表の貿易商エリス(Elles)の紹介で、台湾へとやって来て、ドッドの代理人になった。ドッドは樟脳について調べていく過程で、野生のお茶や拳山や海山二堡などでの茶葉栽培の様子を観察した。そして、台湾の土壌・気候は茶葉の栽培に適しており、茶葉の品質も申し分なく、台湾には茶葉産業発展の潜在的可能性があることに気づいた。また、李春生もアモイ時代に茶葉の取引を行っていた経験があり、福建省一帯の茶葉産業の発展には比較的明るかったため、二人は北台湾で種茶を売り出すことにした。 当時は少量のお茶が各家庭で作られていたのみで、大規模な茶葉産業というものは存在しなかった。ドッドは木柵一帯で茶葉の栽培しようとしたが、当時木柵の主要な農作物は藍染で、十分な利益が得られていたため、農民に茶葉栽培への転換を迫るのは難しかった。ドッドは試しにまず粗茶と老台茶を買い、アモイへ運び精製した。その後、中国茶郷とも呼ばれる中国福建省安渓の茶の木の苗を買い込み農民に転売した。李春生も農民の茶葉栽培を指導した。ドッドは茶葉収穫後、すべてを買い取ることを農民に約束し、こうして農民に新しい産業に挑戦するよう奮起させた。 さらに、茶葉の品質を改善するためにドッドは製茶設備に投資し、福建省から製茶技師を呼び寄せ、茶屋を設けて茶葉の精製加工を行った。もとは荒茶製造過程までしか行っておらず、アモイ近郊にしか出荷できなかったお茶を、より一層高いレベルまで精製することにより、全世界へ売り広めることのできる「精選台湾烏龍茶」(Choicest Formosa Oolong tea)を完成させたのである。1869年にスエズ運河が開通すると、ドッドと李春生は大型帆船二艘を借りて、台湾からなんと2131担(約12万9000キログラム)もの烏龍茶をニューヨークへ輸出し大好評を博した。台湾茶葉の価格はもともと一担(茶葉の単位)15元であったものが、一担30元へと跳ね上がった。たった一年の間に二倍になったのである。清朝占領時代には、台湾茶葉はまずアモイへと輸送された後、そこから世界各地へと輸出することになっていた。しかし、ドッドと李春生は大型帆船を使って直接アメリカへと輸出していたため、その快進撃は留まる事がなかったという。(デビッドソン著 蔡訳259)。
大稲埕のメリーリーフ 他の貿易商も続々と台湾にやってきた。1879年にはいわゆる「五大貿易商」が淡水や大稲埕にやって来て、次々に貿易会社やビルを建てた。貿易商たちは、もともと中国泉州の同安人しか住んでいなかった大稲埕を、商業・運輸・文化・宗教各方面で各国の様式が入り混じり急速な発展を遂げる大都市へと一変させた。中国や西洋各国の貿易商が次々と茶葉産業に参入した。現在の南港・深坑・新店渓沿岸を含む大稲埕の丘陵地はあらたに植樹された茶の木で溢れ、茶畑は広がり続けた。当時の原住民居住区との境界である「蕃界」まで広がっていたという。1868年から輸出額が記録され始めた。当時、茶葉の輸出額は総輸出額の7パーセントであったが、その後十年間に急上昇し、五割以上を占めるまでになった。当然、このような輸出品の量産には多くの労働力が必要とされ、多くの女性が茶摘みとして茶畑に頻繁に出入りし、大稲埕の製茶工場でもたくさんの女性が製茶技師として働くようになった。茶摘みの女性は家の外に出て働くことが出来、お金を稼ぐことも出来、また家の中に縛り付けられているという過去の状態から抜け出すことが出来たため、茶摘みの時期がやってくると、思う存分おしゃれをして、大稲埕の亭仔腳に座り、談笑しながら茶を摘んだ。彼女たちにとって茶摘みの時期は、社交の時期でもあった。「メリーリーフ(merry leaf)」、つまり幸福の茶葉がもたらした楽しい時間であった。
土地を借りるという問題 それにしても、このような好景気はなんの理由もなく訪れた訳ではない。ドッドが製茶を試みようとした頃、彼は数々の困難な局面に遭遇した。中央研究院の近代史研究所によると、当時の管理部門保存書類と台湾関係歴史資料の解説から以下のことが見て取れる。「天津条約の規定により、台湾の貿易港は淡水の滬尾と雞籠(現・基隆)のみと定められた。また、外国人貿易商は貿易港付近でのみ土地の購入や建物の建設が許された。つまり貿易港付近でなければ、部屋の賃貸契約や一時的な居住・商品の大量購入などは許されていたものの、建物の建設は許されていなかったのである。後の規定の変更により、艋舺も貿易港付近と同様にみなされ、部屋の賃貸契約や貿易、取引などが許された。一方で、大稲埕は貿易港とはみなされなかった。また、外国人貿易商は貿易港付近から勝手に移動することは固く禁止されていた。」このような天津条約の規定があったため、ドッドは居住地として艋舺を選んだのである。宝順貿易会社は李春生を代理人として部屋を借りさせたが、これは天津条約の規定を回避するための措置であった。当時の艋舺の住民は外国人に好感を抱いておらず、利権争いをしていたどの集団にも属さなかった。アモイ出身で西洋人と組んで事に当たっていた李春生もまた、排斥の対象となることがあった。
CCCの創作した物語の中では、ドッドは艋舺で土地を借りるという難題を巧みに切り抜けている。しかし、三大姓との関係がうまくいかなかったことは、ドッドと李春生の前に更なる困難となって立ちふさがり、なんと土地を借りることが暴力事件にまで発展した!イギリスとアメリカはこの大問題に巻き込まれるのか?! 「百年前の艋舺抗争——歴史の中のヤクザ事件簿」に関係する解説があるので、ぜひ見て頂きたい。 注解: 参考文献 「ジョン・ドッド、李春生と茶葉の時代」ゆかりの品々 原德商東興洋行 主題とキーワード 台湾建築 ジョージ・L・マッケイ博士がカナダから淡水に到着した際、初めに訪れた淡水港(左上隅にあるのは紅毛城,白い建築物は総税務司公署1872) 主題とキーワード:
Все, и мужчины "Фриволите"и женщины, стояли на палубе или поминутно выходили "Технология программирования на C++. Начальный курс"из кают взглянуть на "Развитие речи. Для занятий с детьми от 5 до 6 лет."ход состязания. Это был один из самых громадных косяков, какие только приходилось "Личные мотивы. В 2-х томах. Том 2"видеть Бену Брасу в своей жизни. Этот разговор и "Греческий язык. Шпаргалка для путешественника"особенно его странная заключительная часть так ошеломили "Книги нашего детства"меня, что "Семейный детский сад"я прямо окаменел. Разные обстоятельства могут помешать нам. Я думаю, это было бы лучше "Литературное чтение. 2 класс. Методические рекомендации. Пособие для учителей общеобр. учрежд. ФГОС"всего, если вы не считаете, "Учись, малыш! Азбука. Книжка с наклейками"что еще слишком рано. Но теперь никто "Черный принц"не помышлял вторично обратиться к богине удачи.
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