ベストコレクション 一曲歌えば花が咲く--台湾芸者の生涯と運命

バスの運転手、車掌、看護婦、電話交換手、茶摘み、製糸工女・・・。これらは日本統治時代に女性がついていた職業である。しかしそれ以外にもう一つ、歴史の中に埋もれてしまいそうな女性の職業がある。芸者である。

芸者と聞くと、遊女や売春婦のことだと思っている人が多いかもしれないが、芸者は実のところ芸を生業とする職業である。幼い頃から詩歌や唄の稽古に通い、宴席に興を添え、芸を手段として報酬を得る。女性なら誰もが芸者になれる訳ではない。そして、誰もが芸者を酒席に呼べるわけでもない。もし太夫のひいきの客になりたいなら、何度もお座敷に呼び、徐々に情を深めていってはじめて芸者は馴染みの客として迎え入れる。芸妓という文化が日の目をみなくなってから売春の事例が増えていったのである。

台湾の芸妓文化は清朝の同治時代から第二次大戦終結まで存在しており、台北の大稲埕と台南辺りに集中していた。大稲埕の遊郭が最も繁盛していた時期は大正9年(1920)頃であり、当時芸者は300名ほどいたが、昭和10年(1935)には80余名に激減。台湾社会が急速に発展していった時期とあいまって、男女の比例が不均衡な社会であったため、家計を支えるため幼女を売って芸者にさせる者もいれば、一攫千金を狙い他人に養女として売り、さらに芸者に転売する例さえあった。


芸事を習う半玉たち
(写真提供 中央研究院台湾史研究所)


琵琶を爪弾く芸者
(写真提供 中央研究院台湾史研究所)

日本統治時代には、半玉(見習の芸妓)は、まず公学校で6年間の義務教育を受けてから、正式に師匠の下で稽古に通い始めた。北管、南管、亂彈戯、京劇等どんな形式の戯曲にも堪能であることが芸者としての基本条件であった。唄うこと以外に、一人前の芸妓になるには琵琶が弾けることも必須条件であったが、ほんの10歳程度の幼女にとって琵琶は大きすぎて、重心を支えることすら容易ではない。蘇太虚(註1)が詩に「憐れなことよ。琵琶と同じ大きさの体で琵琶を習うとは」と歌っているとおりである。また、お師匠さんのところへ稽古に通い、詩歌の腕も磨かなければならなかった。


宴会で芸を披露する芸者
(写真提供:中央研究院台湾史研究所)


芸者が寿祭りで、歴史人物の格好をして神輿で担がれる民俗芸能「芸閣」を披露
(写真提供:中央研究院台湾史研究所)

試験に合格して「鑑札」を手にしたら芸者は正式に活動することができた。芸者の調達や納税は公の「検番」により管理されていた。当時の文人は芸者と頻繁に交流していて、大稲埕にあった名ホテル江山楼で芸を披露した後、「芸旦間」で二次会を行うことが多々あった。台湾の作家葉榮鐘が残した日記には、彼が記した『台北の芸妓』の作成過程が記録されており、また「三六九小報」と「風月報」にも台湾全土の規模で催された芸者コンテスト「花選」について触れてある。日本人統治の下、酒場と「芸旦間」に徘徊する台湾文人や豪商は、芸達者な芸者達と特別な絆で結ばれ、漢文化との交流を糸口に多くの詩が残された。

一世を風靡した芸者も、縁があれば、嫁ぐか身請けされて、正式に芸者の世界から足を洗った。あるいは女将に昇格し女の子を引き取って置屋を設けたり、剃髪して出家するものや命を絶つ者、駆け落ちに失敗し心中しする者や、巷で浮き沈みを繰り返して一生を終える者もいた。芸者の一生には限りなく想像をかきたてられる。

註1 蘇東岳(1902-1957)のこと、台南善化出身、詩社「淡如吟社」の創立者。

参考文献
邱旭伶(1999) 『臺灣藝妲風華』 台北市 玉山社
英仕(2010)『論「藝旦之家」與日據時期大稻埕之地方人文和藝旦文化』173,P37-73