日本統治時代における日台間書道・絵画芸術の交流と発展 |
文/香取潤哉
人類は文字を通して何千年にもわたって文化や歴史を記録し続けてきた。書く道具には木の枝から彫刻刀、毛筆、ペン、そして現代のパソコン入力などがあり、また筆記されるものには石板から、泥板、紙、電子ペーパーなどがある。様々な筆記具は、各々の時代の特徴を映し出している。漢文化においては毛筆を三千年以上にわたって用いており、それが主な記録の方法であった。 書画は文人の生活に無くてはならぬ産物であり、一時は現在のような表現方法としてではなく、彼らの生活の一部として存在していた。台湾の書画の変化について詳しく知りたければ、明朝の鄭成功来台以降にまで遡った方が良いだろう。鄭氏と共に科挙合格者や中国の文人が台湾に渡ってきて、その結果台湾の書画は発展し、その後の進展はおおむね安定したものだった。1895年、日本統治により西洋教育制度が導入され、学習方式や促進方法に変化が見られるようになった。五十年の歳月のあいだに台湾の書画もその影響を受け、中国本土のスタイルから徐々にかけはなれていった。 日本統治時代には日本文化の発展に重きが置かれ、日本文化や教育が推進されたが、伝統的な漢文化である人文哲学も重視されていた。特に書道は文人の生活の自然の発露であり、日本政府も積極的に促進に努めた。書道教育家である日下部鳴鶴の弟子をはじめ、台湾総督府より任命された山本竟山(1863-1934)、台湾を遊歴した丹羽海鶴(1863-1931)、比田井天來(1872-1939)、書道教師であった西川萱南(1878-1941)らや、各種の書画会や書道関連書籍・雑誌の宣伝により、台湾の書画は徐々にその趣きを変化させていった。 共同文化圏という観点から視ると、日本人は基本的な漢文をすでに習得していたため、日本から台湾へやってきた仕官や文人の多くは漢詩の素養があった。そのため、言葉は違っていても漢詩朗詠など、風雅な社交の場で台湾の名士たちとコミュニケーションができた。書画はもっとも一般的な話題だったのである。 日本統治時代という矛盾と複雑な感情が入り混じった時代に、漢詩や書画という芸術の観点を通して、当時の日本人と台湾人の間の文化交流が成り立っていたのであろうか。 日台書画を通した文化交流 児玉源太郎の総督時代に民政長官を務めていた後藤新平は、台湾の近代化に甚大なる貢献を果たした人物である。後藤は行政で活躍した他、書道にも関心を持ち、優れた作品を数多く残している。「玉山高聳白雲低、濁水溪頭望氣迷。千里西南青不斷、峰巒畫出幾層梯。(玉山は高く聳え、白い雲は低く、濁水溪のせせらぎを遥かに望む。青い山々は千里先まで続き、連なる峰々が幾層にもくっきりと見える。)」落款は「嘉義巡視之一 新平」とある(図2)。文官であり、且つ知識人であった後藤は、嘉南地区で見た光景を詩と書の形で残した。歴史と芸術観点から視ても、価値ある作品である
日本統治時代には様々な台湾の自然名勝が台湾百景として、また文化史蹟として指定された。こうしたことから、日本人が台湾の美しさを心から感じ取っていたことがわかる。台湾第八代総督田健治郎(注1)は台北で「南國又迎第四年、喜看松竹萬家聯。島國花笑常春境、不費蓬萊稱為仙(南国にて迎えた四年目、町や人々の生活は繁栄している。この島国は常に花満開の春のようで、流石に蓬莱仙境と言われるだけことはある)」(図3)という漢詩を残している。台湾に駐在して四年、この書からも仙境にいるかような喜びを見てとれる。田健治郎は日台平等を標榜しており、1920年花蓮港で高砂族との集合写真を撮った折にはこんな詩を残している。「羽飾紅袍氣勢雄、若崩厥角表微衷。臺灣艋舺大頭目、被擁蕃人入畫中。(羽飾りのある赤い服装は猛々しいが、総督に敬意を表している。台湾艋舺の頭領は蕃人護衛のもと写真の中に入ってくれた。)」(図4)作品右方には「田園趣味」という刻印があり、当時の日本総督と原住民間の交流を記録する漢詩である。
台湾の文人達は科挙が廃止された後、府県学や仕官など情報を共有できる場を失い、詩社の集いや文人会合の席でしか自らの教養や才能を表すことができなかった。台湾の知識人は日系文人との詩文交流で公的な人脈ネットワークを築き、一方で総督は素養を発揮しつつ、儒教政治を行うことによって懐柔政策を執行した。図5は台湾第十一代総督上山満之進と新竹の文人魏清德(注2)が交わした作品である。上山満之進は1926年に台湾総督に赴任、二年間総督を務めた。任期中に文教局を設け、また台北帝国大学を創立し、幣原坦を校長として招聘した。文政学部や理・農学部を設置し、文政学部では南洋史学を教授し、土俗人種学の講座を開いて台湾の特色に関する研究の発展に寄与し、重要な多量の資料の記録を残している。 1927年、塩月桃甫や郷原古統、石川欽一郎などの企画の下、総督府主催の「台湾美術展覧会」が行われた。美術を推進する活動が実際に行われ、西洋と東洋とを結ぶ新技法が披露され、水墨の風景画にも作者が感じた理解を映し出すことが強調された。当時の淡水の靄のかかった風景は、南画の特徴である朦朧とした雰囲気と似ていたため、多くの画家が淡水で創作をした。初めて油絵技術と油彩の素材を台湾に導入した画家塩月桃甫は「台湾は日本の中で、自然色彩が最も豊富で、且つ美しく変化に富んだ場所だ」と台湾のことを表現したという。 日本近代化の中でも、自然風景の再認識は山岳画にも新しい要素を加えた。石川欽一郎は台湾を評して「山々の線が力強い」「自然には色彩が満ちている」と言った。また、水彩画家丸山晩霞(注3)は台湾の高山植物に格別関心を持ち(図7)、彼の絵画は常に高山、水牛、楠といった典型的な台湾の姿を映している。また、丸山は台湾紀行から受けた印象から「風景」を再定義し、台湾の風景を形と色、壮美と優美、そして風景と史景に分類した。
上に記したことは、芸術の面でも歴史的観点から言っても多いに意義がある。清華大学中文学部の楊儒賓教授と方聖平教授より蒐集されたこれらのコレクションは、清華大学一般教育センターの謝小芩教授と馬孟晶教授、同学台湾文学研究所柳書琴教授、及び清華大学図書館莊慧玲館長によって進められている「日本統治時代の日本人と台湾人の書道・絵画デジタルアーカイブプロジェクト」に収められている。同プロジェクトサイトでは、日本統治時代の書道・絵画を数多く展示しており、中には100年以上歴史のある貴重な文化財や、日本統治時代五十年間の内、三分の二の総督の作品が収集されていて、計407点ある。このように大量且つシステム化されたコレクションは台湾では珍しく、これらのコレクションから日本統治時代の日本と台湾の間で行われた文化面の交流状況がよくわかる。日本では明治時代以降、海外視察、旅行、史跡訪問などの活動が徐々に増加し、漢詩と書道は日台交流の媒体となり、日本人は漢詩や漢文によって台湾に対する感慨を記録した。豊富で多様な作品群には芸術的な価値があるだけでなく、日本統治時代の文化交流を分析する上でも参考になる。 解説
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