華麗に胸を張って生きる:日本統治時代の台湾職業婦人 |
働く女性の姿は長年にわたり変化し続けてきた。当初は家庭を中心とした内職のみであったが多くなく、清朝末期に台湾が開港し、貿易が栄えるにつれて国内製 品の海外輸出が増え、農林業・漁業・鉱業の加工輸出における労働力の需要が増したため、業界ではコスト削減のために低賃金で女性労働者を雇うようになっ た。微々たる収入ではあったが、家計を支えるため台湾女性は外に出て小さな店などで働くようになり、こうして職業婦人としての一歩を踏み出したのである。 日本統治時代に一連の近代化政策が実行され、台湾は新たな時代に突入した。中でも、纏足からの開放と教育促進は、伝統的な台湾女性にとって最も影響ある政策であった。前者は女性を肉体の拘束から解き放ち、後者により女性は知識習得を重視するようになった。もちろん、改革の結果がただちに行き渡ることは困難であり、社会は依然として長年の習慣を踏襲してはいたが、、次の段階に向かって基礎を固めたといえるだろう。
このとき台湾経済は急速に発展し、殖民局も島内の実業発展を支持していた。そのため煙草やパイナップル加工、繊維産業等分野で新しい工場が相次ぎ設立された。台湾へ移住してきた日本女性はほどんど労働職に就かなかったため、需要は自然に台湾女性へ向けられ、内職から専業女工へと雇われる形態が変化していった。新工場では管理制度が重視され、女工達の生活も徐々に伝統的なやり方とは異なるようになった。生活のリズムが安定し、収入があることで娯楽や勉強など自己の必要を満たせるようになり、社会的にも働く女性が認められるようになった。
加工業の他にも、女性が教育を受ける比例は過去より大幅に増加しているため、台湾女性は学校で日本語や専門技術を身に付け、卒業後にはサービス業などに就職することが可能となりました。教育界では学校教員や家庭教師、医療界では看護婦、助産師等、当時の社会で必要とされる職業でした。各地でオープンされるレストランや珈琲店では教育を受けたウェートレスが好まれ、総督府まで女性オペレーターを雇っていました。また、当局は市営バスを設置し、ワンピースを着た女性車掌という新職業が街中の話題となり、更には女性運転手が運送業に加入するようになりました。CCC創作集(訳者註:台湾の歴史、文化、自然をテーマにしたマンガ集)第6話「小裁縫作嫁(訳者註:仮訳、裁縫師が嫁に行く)」の「英姐」というキャラクターは新竹自動車商会の女性運転手田英妹氏がモデルとなっています。
当時の台湾は都市化の真っ最中であり、専売事業の新工場や多くのサービス業者は都市エリアにありました。そこで勤めている女性たちは都市の文化に触れ始め、自らの視野や経験を広げることができました。更に一部の女性は店を開き、会社の責任者になった例も少なくありませんでした。当時新興の洋服裁縫を例に挙げますと、1940年の「台北市商工人名錄」では10軒余りの洋裁店舗の経営者が女性であり、働く女性が専門能力に対する自信や自主的な独立性を表しています。日本時代末期では、女性が職場での出世や性別差別は依然と存在し、数10年以上歳月が経たない限り改善は困難だが、価値観は確実に変化しつつありました。知識や見識を基に、台湾女性は堂々と新時代に向けて一歩一歩進んでいくことでありましょう。 参考資料: 陳佩婷(2009)『台灣衫到洋服-台灣婦女洋裁的發展歷史(1895年~1970年)』 台中市 逢甲大学歴史兼文物管理研究所修士論文 葉立誠(2001)『台灣服裝史』 台北市 商鼎文化出版社 沈方茹(2003)『台北市公共巴士之發展(1912-1945年)』 桃園県 国立中央大学歴史研究所修士論文 「華麗に胸を張って生きる:日本統治時代の台湾職業婦人」に関するコレクション 軍人と看護婦
眼科医師と看護婦の箱根、熱海旅行
テーマとキーワード:若い女性、女児、幼児、写真館、助産婦
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