陰陽を掌中に―善か悪か、城隍はお見通し

『礼記』によると、「天子大蜡八」とは古代天子蜡祭[1]で祭られる先嗇、司嗇、農、郵表畷、猫虎、坊、水庸、昆虫など八柱の神を指す。そのうち「水庸」とは七番目の神で「水すなわち隍也、庸すなわち城也」と言われるように、古代の天子は水庸神に対して信仰心を持っていた。「城」は元々「城壁」、「隍」は水のない堀を指す。「城隍」は城壁と堀を守る神で、もとは農地溝渠の神であったのが後に村落の守護神へと変化した。そして、今では国を守り民を助ける神となり、城隍を祭るという本来の自然崇拝も、国家安泰を祈り、善に報い悪を罰するという民間信仰へと変わっていった。明の太祖朱元璋が特に城隍を敬い、各地の城隍に称号と爵位を授けたこともあり、これが後に省級都城隍(威霊公)、府城隍(綏靖侯)、県城隍(顕佑伯)などの階級の呼び名となった。城隍は明清以降、神の名はなく神の職位となった。陰間の全てを司り、冥界の役所に相当する。各地の城隍は異なる人物が担当し、その見た目も一様ではないが、大部分は「聡明正直」な歴史上の文人が中心である。共通する特徴は、髭を蓄え、官服を着て、顔の表情は厳しく、黒面、金面または赤面である。

 

台湾府城隍廟は西暦1669年に創建され、既に300余年の歴史がある。もとは「承天府城隍廟」といい、台湾で最も古い城隍廟であった。台湾が清朝の領土になり一府三県(台湾府、台湾県、諸羅県、鳳山県)が設けられたことにより「台湾府城隍廟」と名が改められた。保存されてきた歴史文化財は相当数にのぼり、乾隆年間の石机、石の燭台、石碑、そして嘉慶年間の柱聯、額など、その数は全台湾の城隍廟で最も多い。


正殿に鎮座する赤面城隍爺(府城隍威霊公)。
(資料提供 興国管理学院)

【台湾府城隍廟】記事年表
 

紀年 西暦 歴史沿革
明永暦23年 西暦1669年 言い伝えによると明の鄭東寧王国承天府内に建立されたという。台湾で最も古い城隍廟で、もとは「承天府城隍廟」という名称であった。
清康熙23年 西暦1684年 台湾が清朝の領土になり、福建省に属し、一府三県(台湾府、台湾県、諸羅県、鳳山県)が設けられたことによって「台湾府城隍廟」と名が改められた。
清康熙32年 西暦1693年 知事の呉国柱によって改修された。三開間単座式の廟となった。
清乾隆24年 西暦1759年 知事の覚羅四明が出資し再建された。演劇用の舞台と左右の守り龍が増築され、「重修台湾府城隍廟碑記」という石碑が立てられた。
清乾隆42年 西暦1777年 知事の蒋元枢が出資し増築され、記念に石碑が立てられた。「重修台郡各建築図説」及び「台湾府城隍廟重修図碑」が残っている。
明治40年 西暦1907年 日本統治時代に区画整理が行われた。広大な境内は道路用地として使われ、廟の規模が縮小した。
民国71年 西暦1982年 「青年路」の増幅工事により前殿が道路に接するようになり、道が廟の正面に突き当たる風水でいうところの所謂「路衝」になった。
民国74年 西暦1985年 公式に祠廟類省轄第二級古跡に指定された。
民国86年 西暦1997年 「文化資産保存法執行細則」により国定古跡として指定された。

一般的に広さや明るさを強調する廟とは違い、城隍廟は通常薄暗い雰囲気を醸し出している。台湾府城隍廟に入るとまず目に跳び飛んでくるのは頭上にある「爾来了」という額である。「やっとあなたが来た」という意味で、府城三大名額[2]の一つとされる。門の上の梁に掲げられている大きな算盤と共に、世の人々に対し、一切の善悪功過はいつの日か必ず清算されるため、罪から逃れられるようにという願いを心に抱かないように、との警告の意味がある。殿内の柱には「聴審」「放告」の告示板が掲げられており、他にも様々な古代の処刑用の道具、例えば枷鎖や鎖、手錠、斧などがあり、まるで古代の法廷に足を踏み入れたかのようである。正殿の中に鎮座する府城隍爺の両脇には文武判官、七爺八爺そして二十四司が付き添っている。文判官は、手に全ての人々の生前の功過善悪が記録されている「生死簿」を持っている。武判官は手に鐧錐(俗称九層鞭)を持ち、判決が言い渡されたあとに懲罰を下す。


府城三大名額「爾来了」。
(資料提供 興国管理学院)


「善も悪もついには応報がある」 城隍爺は算盤で世の人々の一生の是非善悪や功過を計算する。
(資料提供 興国管理学院)

台湾府城隍廟の巡行日は城隍爺の生誕日(陰暦五月十一日)の前後である。城隍巡行の最たる特色は「暗訪」で、巡行の前夜静かに管轄区域を巡回し民衆の実情を調査すると共に魔物や悪霊を退治する、いわゆる冥界の取り締まり活動である。「暗訪」の翌日は昼間に堂々と巡行する。今日の地方行政官が地域を見回るのと同じである。神の力で厄を払い福を祈るだけでなく、この巡行を通じて管轄地区の範囲をはっきりさせるという目的もある。城隍爺巡行の際に七爺、八爺はいつも重要な役割を担っている。通常は巡行行列の先頭に立ち、雨傘と布包み、鹹光餅(パンの一種)を背負い、手には火籤と虎牌を持っている。


左 七爺(謝必安、白無常)、右 甘爺(甘将軍、陰陽仔)。
(資料提供 興国管理学院)


左 柳爺(柳将軍、三角仔)、右 八爺(范無救、黒無常)。
(資料提供 興国管理学院)

[1] 蜡zha4/cha4/la4 周の時代、歳末に行われていた祭祀の儀式で、あくる年の息災を祈るもの。
[2] 府城三大名額とは、天壇の「一」字額、竹渓寺の「了然世界」額、台湾府城城隍廟の「爾来了」額のこと。

参考資料

黃柏芸(2006)『台湾の城隍廟』台北県 遠足文化

陳登武(2007)『人間界から冥界へ―唐代の法制、社会と国家』 台北市 五南


武判官

  • 主題とキーワード 台南府城隍廟の武判官画像
  • 説明 武官の服「白虎袍」を着て、手に「鐧錐」を持っている。「鐧錐」とは、俗称「九層鞭」ともいい、鞭のような形で四つの角のあり「簡」とも言う。武判官は刑の執行者で、正殿の右方に鎮座している。清の嘉慶年間に製作された。
  • 資料識別コード:

2/12


八爺

  • 主題とキーワード:関連民族:台湾漢人
  • キーワード:宗教関連用品
  • 解説 博物館解説 「七爺」は名を謝必安といい、大柄であった。「八爺」は名を范無救といい、小柄であった。言い伝えによると、二人は木の下で待ち合わせをしたが、川の氾濫に遭い、八爺は先に着いたが七爺を待ってそこを動かず溺死してしまった。七爺は後から来てこの光景を目の当たりにするや首を吊って自殺した。二人はその信義を守る精神により、死後霊界に入ることを許され、悪い霊を取り締まる役目を仰せつかった。普段は城隍廟の門の左右に立ち、人間界を監察するだけでなく、善人を褒め、幸福や長寿を授けるとされる。「范將軍」「謝將軍」とも呼ばれる。

Толпа повалила за нами; кто "Кадастровая оценка земель"забежал вперед, кто отстал, а "Кадастровая оценка земель населенных пунктов"мальчишки и кое-кто из мужчин шли рядом и глумились надо "

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