1930年代の台北ファッション

台湾博覧会の前の時点では、台北市内の常住人口は凡そ28万人、人口では台湾一の大都市だった。そのうち6割5分は台湾本島の漢民族で、2割9分が日本人。。この二つの民族は文化や風習が非常に異なっており、その違いは伝統的衣装からも見てとれる。日本では、明治維新後西洋化が進み、西洋式の軍服やスーツや洋装が流行し、このトレンドは海を渡って台湾にやってきた。また、上海のアパレルやヘアメイクも雑誌等を通して台湾の町中で話題になった。

 

台湾博覧会の前の時点では、台北市内の常住人口は凡そ28万人、人口では台湾一の大都市だった。そのうち6割5分は台湾本島の漢民族で、2割9分が日本人。。この二つの民族は文化や風習が非常に異なっており、その違いは伝統的衣装からも見てとれる。日本では、明治維新後西洋化が進み、西洋式の軍服やスーツや洋装が流行し、このトレンドは海を渡って台湾にやってきた。また、上海のアパレルやヘアメイクも雑誌等を通して台湾の町中で話題になった。


異なった服装をしている台湾人家族:左より、着物、大襟衫、対襟衫、スーツ、ワンピース、学生服。
(写真提供:国立暨南国際大学人類学研究所)

服装の様式からは、東洋と西洋、伝統とモダンの交流を垣間見ることができる。それ以外にも、清朝から民国時代にかけての歴史的記録から、台湾人、特に台湾女性の服装に対する追求が見てとれる。台湾は織物の生産が少なく、さらに海外貿易が発達していたこともあって、衣服の生地は四方から入手できた。台湾女性は裁縫や刺繍に長けており、様々な模様やスタイルの伝統的衣装や新式チャイナドレス、ワンピース等を外出着としていたので、初めてこの地を訪れる外国人に新鮮な印象を与えていたという。

次に30年代の台北の町でよく見られた服装を紹介しよう。


対襟短衫と長袍馬褂(男)

台湾漢民族男性の伝統的日常着は「衫褲」で、上半身は主に着用に便利な「對襟短衫」(対称襟の短い着丈の服)、下半身は長ズボンか7分丈のズボンである。台湾は季節の温度差が小さい為、夏物と冬物の服装は似通っていて、プレーンな色や黒が多かった。1930年代には、「対襟短衫」は労働者階級を表し、台北市内の漢民族集落でよく見かけられた。一方、「長袍馬褂」は台湾漢民族男性が祝い事や社交の場で着る正装である。1920年代よりスーツに取って代わられ、公開の場で見かけることが少なくなったが、伝統的な催しの場では今でも見かけることがある。
(写真提供:国立暨南国際大学人類学研究所)


大襟衫(女)

台湾漢民族の伝統衣装は福建・広東辺りから踏襲されたもので、胸元をさらけないように、女性の上着は右袵の大襟衫に、下半身はズボンかスカートであった。大襟衫には通常刺繍や縁に装飾が施されていた。草花や動物、「福」や「壽」などの文字、線状の模様や幾何模様等である。裁縫用の綿や更紗、シルク、ナイロン等材料は各地より取り寄せられたもので、材質や柄、色は様々であった。閩南女性の服装は一般的に華やかで、客家女性の服装は比較的質素であった。大襟衫は1910年以前には、台湾漢民族女性の唯一の伝統的衣装であったが、1930年以降には「衫裙」や「衫褲」もよく見られるようになった。
(写真提供:国立歴史博物館)


和服(女)

日本の伝統衣装着物はその起源を奈良時代にまで遡ることができる。当時の天皇は遣唐使を遣わして唐の制度や文化を日本に伝えたため、上層階級では唐朝風の服装を着用し始めた。その後幾度かの変遷を経て、着物は製造や染色の面で独自に発展を遂げ、江戸時代に型が定まったのち今に至っている。早期来台した日本女性は外出の際には着物を着用していたため台湾本島人とはいでたちが異なり、それは同時に異なる立場の象徴ともなった。一方、台湾女性は結婚式や学校行事、一部のサービス業に携わるもののみ着物を着用していた。皇民化政策の時期には、当局は女性の全面和服化を推進しようとしましたが、暑い気候や着物の値段が高いこと、そして戦時には節約が奨励されたことなどあって、徹底されることはなかった。
(写真提供:国立暨南国際大学人類学研究所)


和服(男)

日本の男性の伝統的衣装である着物は、そのルーツを三国時代にまで遡る。呉越から輸入された、絹で作られた中国服は「呉服」と呼ばれ、一般民衆が着用していた。後に日本の戦国時代の羽織や徳川時代の小袖などの要素が加わって袍・袿に取ってかわり、男性の和服の形となって現在に至る。来台初期には、日本人の多くは着物を身に付けていたが、後に外出する際にはスーツを着用するようになっていった。
(写真提供:国立暨南国際大学人類学研究所)


スーツ(男)

スーツは明治維新以降、西洋の進んだ文明の象徴として日本社会に導入された。一方、中国では辛亥革命前後に、社会の風紀を一新させるため、ビジネスマンや留学生に辮髪禁止、馬褂着用禁止が求められ、スーツが着られるようになっていた。台湾では1920年代からスーツが徐々に普及し始め、1930年代初期には国籍問わず中・上層階級の男性は背広にワイシャツ、ネクタイ、中折帽が社交の場の正装であった。
(写真提供:国立清華大学図書館)


洋服(女)

日本の近代において、洋服が一番最初に登場したのは、幕府末期に通商が行われるようになった横浜だった。そして明治時代に入ると、上流階級は外国人と交流する際に洋服を着用するようになった。大正時期半ばには、服装改善運動が推進され、洋服の利便性や経済性が強調された。それに伴って洋服の裁縫技術も大幅に改善され、働く女性が増加していたこともあいまって、洋服を女性社員の制服とする企業も増えていった。この風潮は台湾にも伝わり、学校教師、オペレーター、事務員、加工業社員など働く女性が増える中、1930年代後期の写真では洋服を着ている台湾女性が頻繁に見られるようになっていった。
(写真提供:国立暨南国際大学人類学研究所)


チャイナドレス(女)

チャイナドレスはもともと満州族の伝統衣装であった。民国初年に行われた女性解放運動の影響で、首都の女学生たちは男性のような格好をし始めました。ショートヘアで、男子学生のように長袍を着ることは、新時代の知的女性の象徴でもあった。そして後に長袍は女性のファッションになっていった。1930年代には、脇に深くスリットを入れたり、丈を短くしたり、また体にぴったりフィットした上海式チャイナドレスが流行した。台湾女性もトレンドを取り入れ、改良式チャイナドレス姿が町中で見られるようになった。
(写真提供:国立清華大学図書館)


官吏制服(男)

台湾総督府は統治者としての威厳を示し管理を行いやすくする為、西洋の軍服を模した官吏の制服を制定した。各級の文官、警察巡査、教師、鉄道職員等の公務員は勤務時間中制服を着用するよう義務づけられた。台北城内には政府の役員が多かったため、官吏の制服は公の場でよく観察され、重要なイベントの際の礼服でもあった。官吏の制服は日本統治時代後期、台籍エリートが公職に昇格したという社会地位の象徴でもあり、台湾史上初の医学博士となった杜聰明を始め、当時公学校教員であった呉濁流も官吏の制服を着た写真を後世に残している。
(写真提供:国立暨南国際大学人類学研究所)


学生服(男)

明治の初年に制定された日本の男子学生服は、西洋軍隊の制服を基に作られたもので、詰襟や学生帽が特徴である。帽章や襟章、裾章を装飾や区別の為に付ける。男子学生服は1920年代より台湾の公学校や高等学校で採用され、学生服は新式の教育を受けたエリートを象徴していた為、台湾の若い男性は学生時代には学生服で各種の家族の活動に参加していた。
(写真提供:国立暨南国際大学人類学研究所)


学生制服(女)

日本は明治時代に西洋化を推し進め、国民の体格を向上させるため学校教育に体育を取り入れた。伝統的な和服だと運動に適さない為、一部の学校は洋装を体育の時間の服装とした。1920年代初期、セーラー服が普及し始め、台湾でも一部の女子公学校や女子高校で採用された。今日残された卒業記念写真から、伝統的な大襟衫やワンピースやセーラー服等、当時台湾各地の女子学校の制服は自主的に選定されていたということがわかる。
(写真提供:国立台北芸術大学伝統芸術研究センター)

参考資料:
中山千代(2010)『日本婦人洋装史』東京都 吉川弘文館
永島信子(1943)『日本衣服史』京都市 芸艸堂
国立歴史博物館編集委員会(1995)『国立歴史博物館珍蔵台湾早期民間服飾』台北市 国立歴史博物館
葉立誠(2001)『台湾服装史』台北市 商鼎

「1930年代の台北ファッション」に関するコレクション

母と子
テーマとキーワード:キーワード:名士の親族・友人写真
記述:日本統治時代の婦人は漢民族の伝統服装を着用し、子供には和服を着用させている。婦人達は伝統服装に合わせて厳粛な表情をしている。
資料識別コード:オリジナルアーカイブ番号:87002057

伝統と現代
テーマとキーワード:キーワード:スーツ、伝統的服装
記述:時間:日本時代昭和6年
資料識別コード:オリジナルアーカイブ番号:87010738

Серебряные "Пироги и кое-что еще... 2"доллары звенят на столе.

Рядом стояла Лали и смотрела в туже "Броненосцы типа "Пересвет""сторону.

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